なぜだか胸に刺さって離れない”一生忘れない言葉”というものがあります
”僕の一生忘れない言葉”の中に、こんな言葉があります
「死にたい」は「生きたい」という叫び
この言葉がなぜ胸に刺さったのか?
この言葉の意味することはなんなのか?
僕の実体験を元に、僕なりの解釈でご紹介します
人間は非合理的な生き物
そもそもの矛盾が「死にたい」と主張する人が「生きたい」というのはどういうことなのか?
この矛盾は、人間が合理的に生きていけないことが原因だと思います
この矛盾が生まれる例がいくつかあります
その一つが、これです
【失恋して「大丈夫?」と聞かれて「大丈夫」と答える】
自分が好きな人にフラれたら、当然傷付きます
そんな時には友達や周りの人があれこれ言ってきますが、必ず聞かれることが「大丈夫?」です
誰がどうみたって凹んでます
「なんてことないさ!」って態度に見えたって、内心傷ついていることは誰だってわかるはずです
フラれた本人はほとんどの場合「大丈夫」と答えます
その場にいる人の全員が「フラれた人は大丈夫では無い」ことはわかっています
しかし、なぜだか事実とは違うことを言ってしまいます
より近い例はこちらです
【死んでほしく無い相手に「死んでしまえ!」と言ってしまう】
「死ね!」とまでは言わなくても、相手が傷つくような言葉を発してしまったなんてことはいくらでもあるでしょう
当然、相手に死んでほしくは無いです
ですが、自分にとって不都合なシーンでは相手を強く罵ったり避難したりしてしまい、本心とは異なる過激な言葉で相手を罵倒してしまうことがあります
本当に死んでほしい人間に「死んでしまえ!」なんてこと、絶対に言いませんよ
心理学者では無いので細かく説明はできませんが、こういった事実とは違う矛盾のある言葉は大抵感情的なシーンで出てきます
これはその場・その時の勢いで出てきてしまう感情です
それぐらい、その出来事に動揺したり落胆したり憤りを感じているからです
本当はフラれずに恋愛が成就してほしかったり、別の展開を求めてることはわかるでしょう
このように、人間が感じている感情と口に出す感情は相反していること、全く異なることがあるということがわかります
ですから、「私は死にたい」という言葉を別の言葉で表現するならば「自分の理想や希望と今が違って絶望している。本当は自分の思い描いた人生を送りたい」となるかと思います
そして「その願望が叶うことが無いと思い、ならば生きている意味がないからいっそ死んでしまいたい」というわけです
つまりは「死にたいくらいに絶望してる」という今の言葉を大部分省略した言葉が「死にたい」ということです
特に説明するまでもなかったかと思います
僕が「死にたい」と思った高校時代
僕は高校時代、多くのことに絶望しました
僕はあらゆる環境・境遇に恵まれていましたが、僕はそれに気がつくことがありませんでした
そして僕は失敗を恐れて、多くのチャンスを手放して生きてきました
幸運は降ってくることはありませんし、仮に降ってきても手を伸ばさなければ目の前を通り過ぎてしまいます
クラスからは嫌われ、あからさまに避けられる生活をしていました
家族からは成績面でプレッシャーをかけられていると思い、自分の悪い成績に絶望していました
部活では心に壁を作り、勝手に疎外感を感じていました
自分磨きもアプローチもせず、自分に恋人ができないと嘆いていました
お金もろくに貯めずにすぐ使う癖で、いざという時にお金を使いたくても使えなくてイライラして不甲斐ないと感じていました
そして、そんな言い訳や自分勝手な考えで自ら不幸に足を踏み入れていることがわかっているのに、全て周りのせいにしていた自分が大嫌いでした
自分の弱さこそが現状を作っていて、もうこの現実は当時の僕にとって変えられない大きな壁でした
「変わりたい!自分も周りの同級生みたいに、明るく友達と話したり遊びたい!勉強や部活に情熱を注ぎたい!女の子と仲良くして恋人がほしい!バイトしてお金を持って遊んだり必要なものを買いたい!努力をして、少しずつ自分の思う幸せが近づいていく実感を噛み締めたい!」
「でも、それはできない!多くの人ははるか先を高速で走っている。自分にはそんな加速ができないし最高速度も出せない。今の自分が大きく成長したって、過ぎてしまった過去は取り戻せないし、全速力で走っても追いつけるわけがない!」
「ならば、生きている意味がない。人並みの幸せも手に入らないなら、もう生きる価値なんてない。死んでしまった方が、自分も楽になれる。むしろ死んだ方が、周りも幸せなるんじゃないか?」
完全に被害妄想で悲劇的な考えに酔いしれてますね
こんな馬鹿げた考えをしていた過去が恥ずかしいです
ですが、当時の自分は悲劇のヒロインで無敵です
死んだ後に誰かが悲しんでくれれば、それこそが自分の価値を確認できるんじゃないか?とさえ思っていました
家で一人の時、よく包丁を握りしめて手首を切る勇気を振り絞ろうと頑張っていました
多分、人が自殺するときは勇気なんていらないと思います
なぜなら、「死ぬ!」と覚悟を決めようと思えば思うほど死ぬことが怖くなるからです
言い訳をして死のうとする人間は、どうやっても死ぬ覚悟を決めかねる言い訳が渦巻くからです
結局死ぬことはなく、手を何回か傷つけては「めちゃくちゃ痛い!」と感じてやめました
「自分は自殺さえできない男なんだ」とショックを受けたことを覚えています
簡単に発信・受信ができる時代
今までもこれからもますますSNSは拡大していくでしょう
僕がこのブログで発信しているように、誰かが何かを通して様々な言葉を発信していきます
昔の特定の誰かに発信していた時代では、なぜ”死にたい”と発言するのかの背景を知っている人が受け答えをしていた時代です
手紙や電話などがそうです
ですが、今ではこう言った言葉はTwitterやFacebookといった「知り合い(?)」といった人が”死にたい”の発言を目にします
そしてそれに対して、第三者を意識しながら受け答えや同情を装います
もちろん、親身になってくれる心優しき人だっています
ですが、多くの場合は”友達”という”他人”の発言に対して深く責任を持って接したりはしません
良くいえば”気軽”に、悪くいえば”薄情”に、人と繋がれる時代だと思います
「死ぬ」前に「生きてみる」という選択
死ぬことは、僕もみなさんも思っている以上に難しいことです
生命は種の保存を目指すように遺伝子が組み込まれているわけですから、それを断つというのは遺伝子に逆らうことになります
結局死にきれなかった僕は「死ぬ前に何かしてから死んだ方がいい」と思いました
死ぬことのできない言い訳です
僕は学校をサボりました
そしてゲームセンターやカラオケ、ネットカフェなどの”僕の考える不良”を実行しました
当時の僕はメガネをかけて第一ボタンまで閉めてシャツはズボンにインしていました
偏見かもしれませんが、よく想像されるオタクの一人でした
だからか、将来「俺もやんちゃしてたんだぜ」って言える経験に憧れていました
そして僕が実行した”やんちゃ”が、学校をサボって遊ぶことでした
その時に感じたことが、悪いことをしている背徳感よりも自分の好きなところに行ける自由を得た気がしました
今でも一人で映画や旅行に行きますが、この時の経験は多いに関わっていると思います
少し大胆になれたと感じた僕は、”悪いことをしている”と”自由を感じられた”という2点で自分を誇らしく思えました
その後しばらくしてバレて面倒臭いことになるのですが、それでも僕はあの時の”自由”という感覚は素晴らしい体験でした
”悪いことをしている”と言う点は、今となってはどうでもいい感情になっています
この”大胆になる”ことが”自由”に繋がっていると思った僕は、高校時代に少しずつエスカレートしていきます
もしかしたら僕の性格を作っているかもしれません
それでも”自由”という解放感を得るために”僕なりのアドベンチャー”をしようと思い始めていました
「死にたい」と思っていた僕は言い訳を並べて”死ぬ”ことができませんでした
そして「生きてみる」という逃げ道を作った結果、「生きていてよかった」「楽しかった」という経験を積めました
そして「死にたい」という気持ちは後回しにして、「次はこうしたい!」という気持ちが出てきました
”次”という”未来”のことを想像するわけですから、「死にたい」なんてことは微塵も思っていませんでした
その後、紆余曲折があって再び「死にたい」という状況になるのですが、その度に言い訳をして「生きてみる」という選択をしては希望を見出してきました
「死にたい」と思った僕は最高にラッキーだ
生きてても良いことなんて絶対にありません
ですが、道端に落ちている石ころ一つでも人は心を変えることができます
それに気づいていない間は、目の前にチャンスがやってこようとも絶対に手にすることは出来ません
僕は「死にたい」と思って言い訳をして「生きてみる」という選択をしました
その結果、”生きていて楽しいことを見つけることができる”に気づけました
辛く苦しくなっても、楽しくてワクワクすることを見つける才能が僕を救ってくれます
僕は自分で死ぬときは、「誰かを助けるために死ぬ」と決めています
辛く苦しいとき、そんな時こそ「死ぬ」なんて考える人は勿体無いし視野が狭過ぎます
後ろにカロリーメイトがあるのに、飢え死にする人みたいです
目の前にカロリーメイトが落ちてくることもなく、誰かが「後ろにカロリーメイトがあるよ!」なんて教えてくれることは絶対にありません
だから僕は辺りを見回しました
そして僕はふりかけを見つけたのです
「ふりかけをどうしてやろうか?草にかけて食ってやろうか?いや、草ではなくお湯に溶かして飲んだらどうだろうか?」
「草がないから探そう。海を求めて移動しよう」
やがて僕はたくさんの新しい動物や植物、景色を発見します
僕の目的は「ふりかけをどうにかしてやろう」です
ふりかけで飢えを満たし、生き残れるわけありません
それでも僕は、想像していなかった新しい景色と感情に出会いました
”生きる”とはそういうことなんだと思います
”死ぬ”ことができる人間はなんでも出来ますよ
僕は死ねなかったけど、多くのことができましたから
まとめ
もうわかるとは思いますが、本当に死にたいと思う人間はいません
理想や願望と現実が異なって、絶望している人たちが「死にたい」と言います
ですから、彼らの目的は「死ぬこと」ではなくて「生きること」なんです
都合良く”幸運”は絶対にやってきません
実は”幸運の種”は周りに落ちているものなんです
それを頼りに、あちこちと彷徨うからこそ”幸運”を見つけることができるんです
”死ぬ”ことはとても大変な覚悟と行動力を要します
どうせ死ぬなら、その前に何か一つだけ行動することをお勧めします
もし僕が死ななければならないなら、道を歩いているかわいい女の子に突然キスをします
そしてリアクションを見てから死にます
僕は死ぬつもりは無いので絶対にやりません
実行したらクレイジーで大問題だからです
ですが死んでしまうなら実行します
つまりはそういうことです
自分の心に素直になって「死にたい」を「どうやって生きたい」という言葉に変換すればいいです
死ぬことにたくさん言い訳をすればいいです
そうやって死ぬ前に一つだけアクションを起こせば、やがて「死ぬ」理由が見つからなくなりますから